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⚖ Wort - 言葉

作者 伊東洋司


 

ヘレナ 冥府 9の周期 圏谷の宮殿『フランチェスカ』での会談 


*読む前に、もしくは読まれた後に於いても「序言」をよく聞くこと。


――序言――


📜

 今
から始まる奇怪な物語の一片を読まれる前に注意として、まず、私の体験に基づくこと、誤解をさけるもの、様々に相反するもの、中立であること。つぎに、大衆のためのものではないこと、特定の人種を指すのではなく全体であること、価値ある真実として、畏敬をもって偉大な先人たちからの叡智を借りた創造(空想)であること。
 さて、始める前に、この断片化された奇妙な物語の要約の一つとして、ゲーテ自身による「スピノザの論争に対する二三の私見(1)」がとても感慨深いものであったので、私の文の未熟さ(ご謙遜)を補うものとして、そして、より然るべき単純さの一つとして【解説1】に挿入して置くこととした。この「スピノザ論争」の背景については個々で調べていただくとして、芸術と宗教との関係から、東洋と西洋に於ける真の調和、そして親和力とはこのとき、いや、すでに十二世紀の間にも唯名論者と実在論者による無意識による普遍論争によって、アルカナ『三の剣』は大々的に降り注いでいたのである。この芸術と宗教との関係による省察は、ゲーテやフルトヴェングラー、偉大な巨匠たちが揃っていみじくも語っていることから、私から【解説4】と 【終曲】に手短に簡単ではあるがヒントとしてまとめることにした。これは紛れもなく天才、否それ以上の魔神の業であった。


――序曲――


🌌

 こ
の日、タロットの『星』をつかさどる大天使ルシアは、使い古した『マクスウェルの悪魔の心臓』を浄化させたあと、マクロから『真理の門』を抜け、ようやく冥府に入る。そこで、『恋人』のいと若き生命体イヴと合流したのち、芸術家ダンテ伯爵のもとをたずねた。このダンテ伯爵とは『死神』をつかさどる種族の一人で、人間界では不死者(ノスフェラトゥ)として知られているが、その「伯爵」の地位は、今もかつての時代の名残として親しまれており、ダンテという名が本名か定かではないが、人間界に存在する世界文学の一つ、『喜劇』の著者と何かしら関係があるものと人人の間で噂されているのである。 ――この世界では、タロットカードのアルカナが具現化され、人間生活と相互に依存し合っているのである。そして、このアルカナのことを、ある人人は「魔神」と呼ぶ。


――ヘレナ 冥府 9の周期

圏谷の宮殿『フランチェスカ』での会談――


🏛

 私
は、ダンテと食事をした後、人間界に於ける「絶望」と「怒り」、そしてもう一つ、「邪教」に関する命題について、話をすることになった。  

(•••)ルシア――――最後に、摂理の一つとしてダンテ伯に是非お伺いしたいのですが、なぜ現代の人間は偉大な巨匠たちがいながらにしてその残された功績、全き自然に対し無関心で、それでいてまるで亡者のように幻影から現実に追われているものばかりなのでしょう。素晴らしい錬金術、錬丹術を備えながら、発展と同時にゆくゆくは虚栄に駆られてしまうのも矛盾ばかりです。「人人」という種族はこれから先どうなっていくのか、また、それは一体だれの責任なのか?

 ダンテ――――血と血とのまじりあいを、科学的思考によって全ての問題を解決しようとしてしまい、人人は知らぬうちに科学を信奉してしまっているからです。自己を万物の尺度とみなし、芸術に於けるあらゆる直観も思想も、言葉によって好き勝手に支配しようとしているのです。そして、断片化(ディジタル)されたものや離散されたものがまるで自然であるかのように、それは正しいと思われるもの、そうやって育成(教養)としての情報や過程、さらに手みぢかなものや正確な事物を無視し、一面的な思考によってのみ処理されてしまっているからなのです。連続(アナログ)された有機的事象や、自然の法則といったようなものがまるで知性のために、それを技術文明によって克服すべき課題であるかのようにです。これはつまり、人人が到達したメカニカルの驚異によるものだからです。もちろんメカニカル全てを否定するものではありません、これには一つ問題があります。価値ある真実までもが一面化し、離散されてしまうことなのです。
 全ての無機的・有機的事物、そしてさまざまな事象から「芸術」を中心に置いて考えていった場合に、例えば、人人が今も熱心に制作している『戯画』(映画またはアニメ、漫画、ゲームなどのことを指す)がありますね。ここから本質を深く思惟した場合に、第二の自然として挙げられるのが、力、愛、智慧、勇気、肉体、精神、感性、理性などです。これらすべてに共通する深い概念を正義、そしてもう一つを真実としましょう。
 さて、このケルベロスの紋の入った書『悲劇(2)』を使い、少しまわり道をしながら話を進めていくことにして、まず、感情移入をしやすいという点で戯画とは極めて抽象的な作品であるといえます。つまり一面的なもの、ロマンティックです。このことからして戯画そのものは芸術とはいいきれません。それは有機的事象に於いて、宗教と同じように目的のための単なる素材にすぎないからです。それも、あまりに抽象的であるために、作品から客観的に思惟するようなこともほとんどないでしょう。つまり畏敬や愛といったもの、感動とはただその特性的なもの、時代の意欲によってのみ与えられた感情に終始するだけに止まってしまうからなのです。これがいわゆる流行(ファッション)です。先にも言いましたが芸術および芸術家にとって戯画は単なる素材、イラストです。その一面性の多くは審美的なもので、結局は断片化、離散された不完全なものとして目的を見失い、平均化され、本来の働きをしないままに、われわれを通りすぎてしまうのです。
 ところが、この一面性によって人人は本質というもの、与えるもの、与えられたもの全てを欲望のままに植え付け、自然というものを理解しているものとしている、または、理解させた気でいるのです。断片化された不完全なものはたった数年か数日、もしくは数時間から数秒でその本質は夢遊病のように姿を消し、真理を食い尽くし、見終わった後に人人は口をそろえてこう死の吐息を吐くのです。「現実に戻された」もしくは「これが現実」、そしていつまでもいっさいはむなしいという嘆声をもらし、永久に全体に対し自己に対しても、世界の歴史書が生きた屍によって埋めつくされるようにことは繰り返され、結果的に多くは平俗な現実しか残らなくなるのです。
 芸術とはいわば古典といってもよいでしょう。すでに過去の偉大な創造、その荘厳で秩序だったものから畏敬をもって絶えず連続しているからです。これがいわゆる血統です。芸術とはどこか女性にも似通っていて、特に有機的に於いて内部から表すものです。そして、音楽を形成するためのカデンツからロマンティックなメロディ、そして、あらゆる科学によって外部からの自然から甘味な要素も垣間見れ、それらを即興によって表現し、時代と共に発展させていくと同時に有機的連関を通して永遠性の様相をもつことがわれわれの真実性なのです。純粋で清らかなもの、子供や美しい自然、美しい花と似かよっていて単純です。しかし、芸術とは生々しさと同時に、とても具象的でありながら、それはまるで恋愛に於けるまどろみのように移ろいゆき、なにかとらえどころのない「秘密」を作りあげるのです。そこに「緊張感」が生まれるのです。しかも音楽は絵画や彫刻とは違い、見えるものではありません。それも、生死すなわち「美」に於ける人間的な「全貌」を示すのに訓練された腕前とは全く無関係なのです。だから人人は、僅か数秒から数分聴いただけで、普遍的で人間的なもの、何か新たな特性的なものだけを得ようと判断してしまい、あるいは主観によって「全貌」を解明しようと、原因と結果をさらに分けてしまい、反発していくのでしょう。そうして人は否定的にならざるを得なくなるのです。しかしながら、交響的古典と同じように、なにか得体のしれない「魔神的なもの」から詮索抜きに、分析抜きに素直にその感銘を受け入れたとき、過去の芸術、それは荘厳で秩序だった偉大な作品と全く同じような至上の幸福にあずかれ、一筋の光を見出すことが出来ましょう。しかし、科学的思考つまりは理論家たちによって、より断片化し、離散された事象に囚われている現代の人人に於いては、いつまでも誤謬にまどわされ、有機的生命体に属する「全体」に対し、およそ何百年もの時間と「技術」、そして「経験」をさらに要するようになってしまったのです。こんな言葉があります、「主観的な性質の人は、僅かばかりの内面をすぐに吐き出してしまって、結局マンネリズムにおちいって自滅してしまう」と、生命とは自由であると宣言するほど自分を制御してしまうものなのです。逆に言うと、メカニカル自体が「自立」をしているからに他ならないのです。
 さらに、もし作品やその生産者、芸術家に対して仮に愛が芽生えたとしても、それをゆくゆくは自然、そして素朴さを愛すべきものにしていただきたいのです。「あらゆる芸術の最高の使命は、仮象をとおしてより高い現実の幻想をあたえることにある」と、なるほど、人間の「生物学的」本能の衰退、そして、作品に於いて人の本質、全貌を逆に悪魔のごとく恐れている人人を「真のロマン主義者」というのですが、それは『ブリュンヒルデの省察(3)』にこうあるのです。

-----「形成力への崇高な要求は、単なる自称〈ロマン主義〉によって絶対に完遂されない。一方また、偉大な芸術作品はロマン主義に堕することがない。泡立ちあふれる性の象徴(ニーチェ)としてのみ、芸術はそもそも意味と価値とを保持するからである。とはいえ、幻影と夢の世界を現実に置き換えようとする精神の姿勢は、あくまでも拒否すべきであろう。それは、現実と対決しえない無能力にほかならない。しかしこれと同じ傾向が、規模をひとつ大きくしてロマン主義の敵手たちのもとに現れる。彼らはロマン主義を蔑視するだけでは満足せず、現代的事象の一断面、すなわち〈運動性〉がとりもなおさず生命全体であると信じる。およそ愛、温情、心の充溢、感情などとよばれるものを拒み、それを宿敵のごとく忌諱するこの人々こそが、現代における真のロマン主義者である。彼らは、あくまでも人間的な現実より不毛なる知的イリュージョンの世界へと逃避する人種に他ならない。「ロマン主義なしの世界」――今日の一部の若者たちが唱えるこのスローガンは、一面性に走った往時のロマン主義よりもさらに危険である。それは自己を現実呼ばわりするのみか、すでに現実だと感じ、実のところは不毛性のきざしを内面にひそめている。この世界の信奉者たちから〈ロマン主義〉のレッテルをはられるということは、むしろわたしにはいつも一種の名誉称号だと感じられた。」
-----

 芸術および芸術家は、血と血とのまじりあいと同じく、作品にも全てのまじりあいが必要とされ表現されます。それがわれわれ芸術家というものなのです。人人が若いうちは――年齢とは関係なく反復される思春期のこと――その愛にのめり込み、楽しむのもよいでしょう。芸術も結果的には手段にすぎません。先ほども言いましたが、こんな言葉があります。「全ての物質は自立しようとする」。全体を聴き終えた後、私の役目は移り、変わって世界にとって一人一人が自他ともに自己となるのです。これが真の「共同体」としての全体の始まりなのです。人人は常に希望をもっています。それをかつての一国が築いたあの第三帝国のように、見事な演説と宣伝によって、「あなたたちと共にある」などという醜い愛の形に意欲を植え付け、過去の歴史は常に自滅してきたにもかかわらず、代わって今度は、とめどもなく増大してしまった「科学」の人がいつまでも大手をふり、やっている意味も意義も分からず至る所で半端な数を増やし、真理を食い荒らしている。つまり過去も現在も未来も彼らにとって重要なのは《示威することであって、政策を実施する》ことなのです! そこで次の言葉の真の意味が問われることになるのです。『わたしがあなたを愛しても、あなたの知ったことではない――本来の言葉は「神を真に愛する者は、神にも自分を愛せよと望んではならぬ」とあり、スピノザの《エチカ》に由来する――(4)』。これこそわれわれの望んでいたことなのではないのか!? とね。

ルシア――――つまり人間にとって、かつての大戦(大東亜戦争)は終わりではなく、何ものかによって準備されていた「全体に対する悪疫」の始まりに過ぎなかったと。

ダンテ――――それが人間の本性なのでしょう。それは数々のスローガン、もはや幾多の『賞』も結果的には渡し台詞でしかないのです。それは、「メフィストは、思ったよりしばしば真理を語る」と言うのだから。しかしだよ、「聴き手の方はみんな無智とくる」と言うのです!
 そういう訳で、この話を聴いていただいた主観的性質の人人は決まってこの会談を非難するでしょう。私がこうして「音と言葉」を繰り広げなくてはならないのは、価値ある真実のため、そして、一面性とはいえ、戯画もまた宗教と同じく永続性を求め、形式や形象を発展(連続)させようとしている人間の吐露なのです。これが問いかけの全ての「答え」に少なからずなっていくでしょう。科学的思考によって無機的な世界が台頭し、外面世界はいちじるしく変貌していくなかで、抽象によっていとも簡単に一面性に囚われた人人。そして、すでに離散している愛するロマンティック、もしくは不毛なる知的イリュージョンの世界から目が覚めたとき、それもぎりぎりというときになって、一つ一つの有機的連関から起こりえる事象に、何一つ本質を知りえず対処できなくなっていることをここで初めて知らされることになるのです。それも、良くて気がつくのはほんの一握りの僅かな人種です。 これは、欺瞞に満ちた不自然な愛の対象を変えない限り、醜い死の吐息は永久に続くことでしょう。自分自身を知るということは、楽しんでいるときか、悩んでいるときといいます。それはつまり、自分の愛する人からだけ学ぶというものだからです。そこで充分に肝に銘じておいてください。責任とは、あなたがたの深部から湧きでるもの、その本質にあるのだと。

ルシア――――これからも人人の科学技術は発展しつづけるでしょう。しかし、芸術を通じて人間界の事柄ではおよそ三百年前を境に、メカニカルの自立によって退化し、より有機的連関は離散し続けていくと私は考えています。これは、もはや人間にとって必然ともいうべき事柄にも思えます。およそ四、五世紀前の子供が感じとることのできた自然で連続した秩序は、今後、年齢を五十から六十を重ねてようやく理解し始めるか、意思を持つようになっていくのでしょうか。

ダンテ――――これはすでにそれ以前からすぐれた識者によって無意識に理解され、始まっていたことなのです。科学的思考からあらゆる組織によって、今ではもうほとんど芸術感覚を持てなくなっている。大戦後、全ての芸術は凡庸化し平均化され、「過去の歴史的遺物」、「既に解決済みの問題」として軟禁されたまま、そして今後は死滅していく段階にまで来ています。それがいま冥府でも問題になっている「魂の悪疫」なのです。これは特に内面に於いて、真に素朴さ、自然を愛する以外に術はないでしょう。それが芸術の力と力の格闘に於けるなすべき使命、そして命題なのです。だから! あらゆる「絶望」に勝るものは「怒り」とね。
 さて! 蝋燭の焔もあとわずかというところで今日はもう終わりとしましょう。貴女方からの歓びと愛が、今の人間界では特に必要とされています。ルシアは『星』のアルカナです。どうか、光と影の正しい配分、そして、一面性に囚われた人人からの「希望」を心がけ下さい。
 さあそれでは、帰りのポータルには『ラプラスの悪魔の心臓』にこの鎖を連結し浄化させなさい。「甘い吐息の小さな器」から『真理の扉』へと続く通りが開かれます。それとイヴ、私の音と言葉はとてつもなく純粋なものです。もし貴女に僅かでも心に邪心があらば、それはもろ刃の剣となってあなた自身の心をひどく傷つけてしまうでしょう。しかし、天上の舞台の序曲にこんな言葉があります。「よい人間はいくら暗黒の衝動にうながされていても、決して正しい道はわすれない」と、『十の剣』が人間界に『審判』を下すのにはまだ早すぎます。私は、いつでも貴女を愛しています。そして、愛は貴女自身を形成していくのです。



⚖ 【解説】


1.「スピノザの論争に対する二三の私見(1)」:

(•••)われわれの肉体的生活も社交生活も、風俗、習慣、処世知、哲学、宗教、いや少なからぬ偶然の出来事も、すべてわれわれにあきらめの必要なことを呼びかけている。われわれの内部に最も固有なものである幾多のものは、外に向かってあらわしてはならないとされるし、われわれの本質を補うために外から必要とするものは、われわれから遠ざけられるのに反して、われわれにとって無縁でもあれば、負担でもある多くのことがらがおしつけられる。苦心の未獲得したものや、気持よく許されたものはわれわれからうばい取られ、しかもこれにはっきりと気づかぬうちに、われわれは自分の個性を、初めは局部的に、後には全的に放棄しなければならなくなっている。しかし、それだからといってやけっぱちの態度に出るような者は、尊敬されないのが世のならわしであって、むしろ盃が苦ければ苦いほど、逆に甘そうな顔つきをしているべきで、妙に渋い顔をしたりして平静な傍観者の気持を害ねてはならぬ、といわれる。  けれどもこのむつかしい問題を解くために、自然は人間に豊かな力と活動力とねばり強さをあたえてくれた。わけても人間の助けとなるのは気軽さという性質で、これはどんな人にも永久になくならぬようにそなわっている。これがあるから人間は、他の瞬間になにか新しいことに取りかかれさえすれば、いつでも個々のことがらをあきらめることができるので、こうしてわれわれは知らずしらずのうちにわれわれの全生活をたえず再建しているのだ。われわれは次ぎつぎと新たな情熱を見つけて、仕事、嗜好、趣味、道楽などなんでもやってみたあげく、最後にいっさいはむなしいと嘆声を発する。このまちがった、いや神を冒瀆する言を吐いてもたれひとり驚かないばかりか、なにか賢明な、否定しがたいことをいったつもりでいる。このやるせない感情を事前に予感して、あらゆる局部的な諦念を避けるために、いさぎよく全体をあきらめられる人は、ほんの少数あるかなしである。
 この少数の人たちは永劫、必然、法則法を確信し、破壊しがたいばかりか、うつろいゆくものをながめても破棄されず、かえって確証されるこのような観念を作りあげようとつとめる。しかしそのような努力には実際なにか超人間的なものがあるので、こうした人たちはたいてい、神をないがしろにし、世界を無視する非人間とみなされる。まったく、どんな濡れ衣を着せられて悪しざまにいわれるかしれたものではない。(•••)


 *著書はゲーテ『詩と真実 第四部 第十六章』から、参考にした訳書は次の通り。/菊盛英夫訳『ゲーテ全集 第十巻』«初版»、人文書院、昭和三十五年,pp.一九六―九七頁に詳しい。

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2.ケルベロス(狼)の紋の入った『悲劇(2)』:

 Johann Wolfgang von Goethe (1749-1832)のことである。この空想世界ではゲーテの著書を『ケルベロスの書』といわれている。

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3.『ブリュンヒルデの省察(3)』:

 もとは『フルトヴェングラーを語る』の中から、ヨーゼフ・マルクスの論稿にある一部を抜き出したもの。原書は『Wilhelm Furtwängler (1886-1954), Im Urteil seiner Zei, 1955. von Martin Hürlimann 』。参考にした訳書は次の通り、芦津丈夫・仙北谷晃一訳『フルトヴェングラーを語る――マルティーン・ヒュルリマン編』«初版»から、[第二部 フルトヴェングラーの芸術――『ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの精神的遺産』ヨーゼフ・マルクス]、白水社、一九七四年,pp.一二二―二三頁に詳しい。ちなみに、もともとここで挿入した省察の一部は、ヨーゼフ・マルクスがフルトヴェングラー『音と言葉』にある「ロマン主義への省察」の論稿から抜き出したもので、それをこの空想世界では『ブリュンヒルデの省察』としたのである。

 

 

 

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4.『わたしがあなたを愛しても、あなたの知ったことではない...(4)』:

 これを諦観の思想というのか、この言葉と同じ意味合いを持つ言葉が釈迦の聖句『法句経』に存在する。場所は 第12章:160番、165番。私がこの聖句を知るきっかけとなるのが、幼少のときよりならっていた『少林寺拳法』の拳法教範であり、この克服の概念は、西洋の思想に於いて驚くべき言葉であったようである。 ここでわれわれが気を付けるべきは、釈尊(神)の言葉は私に知ったことではないということ。これは神仏の言葉であって私の言葉ではない。ゲーテが語るように、芸術および芸術家にとって、宗教および信仰の有無も単なる素材にすぎない。芸術家にとって芸術こそが宗教なのである。時代と共に自然と歩み、自己の考えと体験、そうして正しい知性と行動が必要であり、人は過去の偉大さ――ここではつまり釈迦そのものである――のうちに自分自身を見出すことによって、自己を確立させるのである。こうして偉大さと互いに求め合い結ばれたときに、真の「親和力」が生まれていくのである。これはより高次な考察であり、これこそがヴィルヘルム・フルトヴェングラーの論じた芸術の素朴さ、それも相対的な素朴さの雰囲気でのみ成長することが出来る所存である。

 

 


【終曲】


 終わりに、われわれは支配欲と怠慢、虚栄によって技術文明によるうぬぼれや思い上がり、そうしてまた独りよがりによって正しいものをくつがえし、闇に葬るような真のディレッタントに走らないよう改めて警戒しなければならない。そして、「民衆に歩み寄れないため本来の自己となりえない天才たちの悲劇、天才に歩み寄れないため本来の自己となりえない民衆の悲劇は、たえず新たに繰り返されている。1944年 フルトヴェングラー ハンスザックスの指針より」これを回避するために、われわれはただ自然と愛するものと共に自分を信じ前進し、「(•••)黙々と正しい道を歩みつづけ、他人は他人で勝手に歩かせておこう。それが一番いいことさ。1827年 ゲーテとの対話より」

 恐怖の闇は、あらゆる問題を解くために西洋の宗教を芸術として開放してしまい、そして、東洋の芸術を宗教として軟禁してしまった。この驚愕すべき、いな最も恐るべき真実と誤謬から「知性」を解放させるために、たとえ手遅れであったとしても、われわれは芸術をもって価値ある真実のみ癒し、そして、有機的生命体としてさまざまな宗教的なものを持つことでこれを体験していかなければならない。これは、すべての人間の奥深くに眠る得体のしれない「魔神的なもの」が作り上げた悲劇と喜劇であった。この「魔神的なもの」を、私はタロットカードのアルカナの中に封じ込めたのであるが、しかし、私もこれ以上の高次な考察は避けることにして、次に前進することにしたい。

西暦二〇一九年(元号:平成三十一年)三月 🌏🇯🇵 伊東洋司


 

 


 


 

 

芸術家について

2018年11月24日

 

人生を逃避するもっとも確実な手段は芸術である。
人生と結びあうもっとも確実な手段も芸術である。
オティーリエの日記より

 ゲーテやパスカルに始まり、音楽ではバッハやベートーヴェン、ヴァーグナー、そしてフルトヴェングラー、それから20世紀の画家フランシスベーコンに、ピカソまで、これだけでも芸術家が何者であるのかを知ることができます。ゲーテの時代からすでにわれわれ現代人に対し警笛を促していたように、全ての偉大な芸術家たちも同じく警笛を鳴らし続けます。その中で、日本では明治維新をきっかけに時代はながれ、第二次世界大戦、つまり大東亜戦争の終結によって大洋の歯車は動き出し、警笛が届くことはもはや不可能となりました。これから私の紹介文(バイオグラフィー)をここに寄せますが、これは私の紹介文でありながら、全体すべての芸術および芸術家のための紹介です。間違っても私個人を非難するような愚かなことはなさらないで下さい。これは何百年、何千年と前から言われ続けたことなのだから。
さて、短い紹介ではありますが、まずはやっていることの意味を知らなければなりません。そして何が不可能となったのか? 芸術家とは何者なのか? この問いに対する答えはこうである。

「芸術とは非政治的、超政治的にすることである。」世界の歯車は、芸術とは逆の方向へ動いているのである。


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芸術家について

 「芸術家とは何者だとお思いだろうか?...」 これは画家ピカソの言葉です。インスタグラムに投降した私の、無意識に宿った内面と外面、古典とロマン、主観と客観は、素材にVAPEのコイルを人物に見立てて使用した、強烈な三枚の写真を皮切りに始まりました。つまり、この現世界では既に芸術は排斥され孤立し、見えない非難によって、私(芸術)を理解せず、手合いには全く無意味、無関心、無知に等しいことでした。しかしそれは、自分がやっていることの意味を知らないだけで、決して憎むべき相手ではありません。
もし、真に純粋さ、そして複雑さからなる単純さを求めた「芸術」が、情熱と愛をもってここを訪れたならば、これから敵に立ち向かい、その努力、勇気ある叡智に対して、私は語りかけ、愛するとともに、次の言葉を賢者に捧げたい。この言葉はもともと『パンセ』の翻訳者である田辺保氏が解説の最後に寄せた「聖句」の一つである。

「The light keeps shining in the dark - 光は暗闇の中で輝いている(ヨハ 一・五)」

 一つに、全体のために自分自身のことなど忘れ、純粋な芸術のために誠実な努力を持つことである。

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 今、インスタグラムに投稿されている芸術を検索すると、そのほとんどはロマン主義によるもの、抽象的で、苦しみでしかありません。これらの「苦しみ」を音楽では、現代作曲家のリゲティやシュニトケなどから本格的に始まったと私は考えています。そして、師事した小川銀次氏もまた、エレキギター、ロック音楽を通じて偉大な演奏を残した唯一の日本人で、「引っ込みバヤシ」や「生きてヤルゥ~!」の演奏などは、純粋に芸術と呼べるものです。
最近では、〇参壱吾(さんいちご)のボーカル、加藤志乃ぶさんや、ギターの永野CAP啓司さんのように、素晴らしいアーティストの方々にはいつまでも頑張ってもらいたいと存じます。いまの私のように、毎日が苦しみと悲しみ、残酷性でしかないような演奏や音楽には、純粋な楽しみを表現することがとても難しいのです。もっともそれは、極めて複雑化された現実によって、芸術の問題がすでに解決済みとしてあしらわれていることにもよります。芸術の問題は芸術家の問題ではなく、大衆の受容する側の問題であって、伝記にあるように、人は時間をかけ、芸術を得るための努力をしなければならなかったのです。複雑化し、離散された教育によって、様式に囚われ、判定そのものが自己の純粋かつ誠実な心ではなく、技術欲によって支配されていること。全体すべては有機的連関のうちに入っていることの意味をまだ知らないということなのではないでしょうか。しかも、音楽は絵画と違い、客観的に全体を聴くことに時間と経験が特に必要とします。
 芸能に於いて、業界や組織に属する手合いは何も語る必要はありません。それはファッションであって、軽喜劇なのだから。感動は自分たちのために、ただ民衆とお互い楽しむことだけを考えていればそれでよいのです。当然、組織を抜きにして芸術は成り立ちえません。ただし、教養を足蹴にし、決して他人を同調させようなどとは望まないでいただきたい。いつでも犠牲になるのは、純粋で敬虔な精神なのである!
 さて、最後になりますが、不可能を可能とすることが今の私の願いであり、ベートーヴェンの第九のように、いつか誰かが音楽を通じて、これからの世界全体に「何者であるのか!」と、知らせ伝えることができればと存じます。私の論文(奇しき書物)にも登場した『捧げることば』を最後に記し、そして、クルトリースの『音楽と政治』にもあった、あのゲーテの『親和力』にある言葉を、同じく序文として記すことにして筆をおきたい。
ありがとう。
尊敬と感謝をこめて 🌐🇯🇵

敬具
伊東洋司



捧げることば

様々に相反するもの。
文明の発展によって、知性そのものから脅威、むなしさに馴れ、
死、悲惨さから逃れようと、中流に位置する人々による全体性の喪失は、
全世界に向けた気ばらしという大航海への狼煙によって、より決定的なものとなる。
今日、人類の道徳的、精神的な存在価値は完全に無力化されつつ、
破滅へと往々に導いていることが、わたしたち現代人の、人類の偉大さである。

ここに 勇気と叡知とを身につけ 同じ悲劇をもってこれに立ち向かい 人間 滅びゆくその最高の瞬間に 暗闇のなかで輝く力と美は また われわれを導く

 

 

 

 

 

 


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